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年末年始はごろごろ過ごす予定で、ビデオを5本くらいまとめて借りて来ていたのだが、 友人から夕食のお誘いが。続いて2泊3日の年越し/世紀越しキャンプのお誘いが来た。 一気に予定が埋まった年末。次の更新は来年ですな。
うららかな日射しを浴び、テレビも観ない生活をしていると、 20世紀最後の年末なんてのはどこか別の世界のような気がしてくる。
以下は日記猿人/日記才人ネタ。
なるほどにゃー。日記猿人/才人の運営を巡っての議論で、 思考回路 の志野さんが感じていた違和感というのがどうも分からなかったのだが、 2000/12/24 の記述を読んでなんとなく分かった。
私はどっちかというと、明示的に議論を尽くして方向を決定するという手法に慣れている。 それだけで人は分かり合えるなんて思っちゃいないが、 言葉にして主張しないと切り捨てられても仕方無いって環境にずっと居るし。 そういう手法が適用出来る範囲においては、 「現状に不満があれば意見を出す/意見が出なければ不満が無いものとみなす」 という態度はうまく働く。
ただこの方法がうまく行くには、 参加者全員が集団の方向づけを議論できる水準にあるという前提が必要だ。 研究グループとか、オープンソースで物を作る集団とか、 全員が目的を共有している集団だとそれは成立ちやすいが、 現実にはそうでない場合も多い。 レベルが高い低いということではなくて、 集団の方向づけの議論に積極的に関わってもらえるほどの関心やらモティベーションやらを 全員に期待できないってこと。
ユーザインタフェースをやっていると痛感するのだが、 「使う人」の意見をまとめてその通りに作るのは大抵うまくいかない。 「使う人」の多くは、自分がシステムに何を欲しているのかを明確に言語化することが出来ない。 自分の見える範囲で改善意見を出すことは出来るが、 現在の使い方をドラスティックに変えるような発想は出てきにくい。 システム全体のビジョンを示して、従来とは違う新しい使い方のスタイルを提案するのは 「作る人」にしか出来ないことだ。 もちろん実装上の細かい点にはユーザからのフィードバックをこまめに反映することが 有効なのだが、それはあくまで最初の大きなビジョンあってのことである。 (ユーザインタフェースの国際会議 CHI '96 だったかに、Windows 95の ユーザインタフェースをどうやって作ったかという発表がある。 それがまさにビジョン不在で「使う人」の意見だけを聞いて作るとどうなるか、 という反面教師になっている)。
サイトを運営するにせよ、システムを作るにせよ、今や二つの方向があるわけだ。 使う人=作る人であって、全員が運営に何らかの責任を持つ場合は 明示的な意見のみを扱うということで良いだろうし、 使う人と作る人を分けて考えるなら、潜在的な需要、声にならない意見に配慮する必要も出てくるんだろう。 多くのオープンソース開発は前者だし、企業が業務としてサイトを運営する場合は後者だ。 「自己責任の原則」をとやかく言えるのは前者の場合だけ。 話がかみあわないのはそのへんの認識の差があるんではなかろうか。 もちろん、日記猿人/才人の方向に関しては、運営チームがどういうビジョンを持つかによる。 それは参加者の意見の集計や投票で出てくるものではない、んだろう。
ビデオで映画を観るという習慣はこれまで持っていなかった。 観ている途中に気を散らしたくないとか、大画面とよい音響で観たいとかいうこともあるのだが、 一番大きな理由はタイムリーに借りに行ったり返しに行くのがめんどくさいということだった。 気が向いた時に観ようと思って借りておくと、期限が迫って来て結局細切れで観るはめになってしまう。 逆に気が向くまで借りるのを待っていようと思うと、 週末くつろいで居る時にわざわざビデオを借りに出かける気がしない。 これが映画館になら行く気になるのだが。
さて結婚して、妻は映画の英語はまだ聞き取れないということもあって、 さっぱり映画館に行かなくなった。そのかわりに、妻の英語の勉強も兼ねてビデオを借りて観るようになった。 今のところは、妻が日本で以前観て話を知っていて、 クローズドキャプションが入っているものを借りて来ている。 そして頻繁に停止・巻き戻しを行って、その場面の英語表現を私が説明するという寸法だ。 途中でぶつぶつ切るなんて映画のペースを台無しにすることだと以前は思っていたのだが、 これが思いもよらず面白い。
とにかく、流して観ていたら見落としていたであろうことの多さにびっくり。 このセリフは冒頭のこれと対応しているんだとか、これはこういう表現のもじりだとかの、 細かいセリフの言い回し。それから、ごく短いカット。妻はもともとビデオで観るのが好きで、 気に入った映画は何度も観ていたそうで、かなり細かいことまで覚えている。 「あそこのあのカットがこれの伏線だったのよ」とか言われて、えっそんなカットあったっけ、 と巻戻して観ることがしばしばある。気付かなかったとは不覚だが、 このぶんだと今まで観た映画でも相当見落としがあるんだろう。
週2本くらいのペースで観ているのだけど、特に面白かったものの感想メモ。
「8 Heads in a Duffel Bag」: Joe Pesci主演のスラップスティックコメディ。 マフィアの抗争で殺された8人分の首をバッグに詰めて運ぶリタイア寸前のギャングと、 初めて彼女の家族と旅行に行く医学生がバッグを取り違える。シチュエーションとしては それだけなんだけど、丁寧に作られててかなり大笑いさせてもらった。 ♪Mr. Hitman〜 のシーンは素晴らしい。
「Hero」: Dustin Hoffman, Geena Davis主演のやつ。 何をやってもうまく行かない男が、 たまたま飛行機不時着事故の現場に居合わせて乗客を救助する。 本人はこんなことに巻き込まれて迷惑だったとぶつくさ言いながら姿を消すが、 メディアはこの美談に飛びつき、血眼になって「ヒーロー」を探す。そして偽物が現われて…。 ハリウッド的お約束も鼻につくんだけど、丁寧に観てみるとやっぱりうまく作ってある。 メディア批判にもなりそうな題材をあくまでその場限りの笑いのネタとしてしか使わないのは、 なるほど本来の喜劇の持つべきパワーと比べれば安い笑いかもしれないが、 それをわかって敢えて軽く仕上げている制作陣は、やっぱりうまいなと思う。
「As Good As It Gets」: そう、私はこれを見逃していたのだった。邦題は「恋愛小説家」だっけ。 大げさなシチュエーションなど不要、キャラクターの個性だけでドラマを転がしてゆく。 Jack Nicholsonの演技は確かにすごいや。 どの場面もとても明るく撮ってあって、 それは例えばマンハッタンの高級マンションに対比させられているブルックリンの アパートメントにも光があふれていて、 多くのハリウッド映画に描かれる「暗いアメリカ」に対して、 あくまで異質な者同士が心を開いて行く明るい面に焦点を当てようとしているんかな。 それでいて説教臭くない。
44歳と聞いてちょっと驚いた。もっと歳が近いような気がしていたから。 それでも若すぎる、との思いは拭えない。 直接会ったことは2回くらいしかなくて、それももう10年以上前だ。 なんとなく身近に感じていたのは、学生時代に私が所属していた劇団の創立者である関係で、 OBで集まると話が出ていたからだろうか。 あるいは、高校生の時期に「DOLL」に触れて、その印象が強かったせいか。 あるいは、エッセイなどから、多摩という地域に生まれ育った同世代の感覚を嗅ぎ取っていたからか。 「都市空間の芝居小屋」にあった駒場小劇場の第一印象の描写は、 まるっきりそのまま私の第一印象と重なっていた。
駒場小劇場は、もう無い。 劇団綺畸は存続しているが、学生劇団の例にもれず顔ぶれはどんどん入れ替わっている。 あの時、あの空間で、確かに手にしたと思ったものは、その場を共有した人々の記憶の中にしか残らず、 次第に消えて行く。
オーケストラや重奏の楽器別のメロディを聴きわける能力(2000/12/11) って、 才能なのかな。訓練なのかな。それとも単なる慣れなのかな。 多くの人は聴き分けようと思って聴いていないのだろうから、 聴きわけられなくても不思議はない。
私も、大学の時にオーケストラに入ってみるまではほとんど意識して聴いていなかった。 入ったらいきなり「ドイツのオケとフランスのオケとのオーボエの音色の違い」について 意見を聞かれてこりゃ大変なところに来たと思った。 何しろ一緒に鳴っているとどれがオーボエなのかもわからなかったのだから。
それが慣れとは不思議なもので、木管グループに混じって稽古しているうちに、 木管楽器の音色は聴き分けられるようになった。要するに、 音色の違いを知らなかっただけなんだと思う。 木管アンサンブルで時々一緒にした関係でホルンもわかる。 でもそこでやめてしまったので、今でも他の金管楽器は一緒に鳴っていると何がなんだかわからん。
ちなみに、同ページにある西洋クラシック作曲家の男女分布の偏りだが、 脳の性差を考える前に社会的な背景を考える必要があるんじゃなかろうか。
ペルーのフジモリ前大統領の日本国籍保有が確認されたというニュースを読んで、 あれ、と思った。日本は二重国籍を認めていないから、 他国で国籍を取得したら日本国籍は無効になるんじゃないのかなあ。 無論、黙っていればわからないとはこれまでも言われていたけれど、 要は黙認してたっってことだろう。 ここで公式に認めちゃうと、黙ってたらいいってのが公式見解になってしまうのでは。
日記猿人と君主制(2000/12/8)。 うーん、「日記猿人があなたに何をしてくれるかではなく、 あなたが日記猿人に対して何を為し得るかを考えて下さい」じゃだめなんかなあ。 わしは何もできんけど。
新婚生活に関する話題が出て来ないのは、 まだ結婚生活ってもんを相対化出来てないから、なのかな。 今日も「よう、どうだい結婚生活は」とか同僚に聞かれたが、どうもうまく答えられない。
生活は確かに変わったのだけれど、 それは日本から米国に来たときのような変化とはちょっと違う。 一緒に居る生活が自分にとってあまりに自然なんで、敢えて語る必要性を見出せないのかな。 語ろうとすると自分語りになってしまいそうだし。
妻とはある人を介して知り合った。 妻の友人が私の同僚だったのだが、その人は私と初めて会った時に、 私と妻とはうまく行くんじゃないかと思ったそうだ。 ちなみにその時私はこんな格好をしていた。 妻がコスプレ好きだということではない。念のため。
見えすぎて気持ち悪い(2000/12/3):神は細部に宿る、というか。 解像度を上げるのは見た目にものすごく効く。色の分解能とか再現性も重要かな。 こないだのSIGGRAPHで出したGSCubeも、ハイビジョン解像度でリアルタイムレンダリング、 というのが見た目のインパクトにつながったんだろう。
自然界を取り込む時(入力時)と再現する時(出力時)に大幅な情報の切り捨てが行われているわけで、 それでも人間のパターン認識力ってのはボケた情報から色んなことを再構成できるから何とかなる。 普通のテレビに使われてるNTSCのモニタなんて、画はボケるし色はずれるし大変なんだが、 慣れちゃうと気付かない。映画をビデオで観て観た気になったりする。
果してそんなにリアリティが必要なのか、という議論もあるかもしれんが、 表現者にとって使える技術の範囲が広い方が良かろう。 私にとっては、もっと高解像度で観たい、と思わせてくれる映像作品はいくつもある。
プログラム系。
最近はLispだの、Schemeだの、Perlだのとガベージコレクション(GC)のある 言語ばかりいじっていて、 久しぶりにCを使うプロジェクトでデータ構造を設計しようとしたらなかなか進まない。 GCの有無でデータ構造の作り方がだいぶ違って来るのだ。
GCを前提とすると部分構造を気軽に共有できるので、 なるべく汎用的な構造を作ってそれをどこでも使い回すように書く。 例えばLispのコンスセルみたいなのをひとつ定義しておけば、 木構造も有向グラフもリストも全部それで表せるので、 グローバルなデータをそういう構造の網のように表現しておいて、 各関数はその部分構造をいじったり返したりするようにする。 Lispではごく普通の書き方だが、これをCでやると、 メモリ管理に悩むことになる。
私的なプロジェクトでは BoehmのGCを使ったりしているんだけど、 何にでも使えるわけじゃないのが難点だ。
独身時代にはあまり意識しなかったが、 心の中にもやもやとしていることが言葉として固まって出て来るには、 一人で黙っている時間が要るようだ。 他のこと、掃除やら洗濯やら料理やら、時には仕事をしながらでも良いんだけど、 外界との言語的な情報のやりとりを中断している必要がある。
というわけで、日記の更新があまり無いのは、 家に帰ったらのべつ幕無しに喋くったり笑いころげているためなのであった。
日常の中でちょっと書き留めて置きたいな、と思うことはあるので、 この項はまとめることを意識せずに、断片的な雑記を書いてゆくことにしようか。
仕事場からも更新できるようなシステムにすれば良いかな。 思い付いたらすぐに書き込めるような。
でも実は Schemeの項はちまちまと更新している。
先日から、カナダのM大学の教授であるP氏がサバティカルの期間を利用して うちの研究開発チームに来ている。 コンピュータグラフィクスが専門で、もともとはチームメンバーの一人の指導教官であるという縁なのだが、 丁度うちではハードウェアを利用していろいろ面白いことをやっているところだったので、 何ヵ月かのハワイ滞在を選んだらしい。
何年かに一度、一年間程、所属する大学を離れて別の場所で研究をする サバティカルという制度があることは知っていた。行き先は他の大学でも良いし、 企業の研究所だって有り得るだろう。 しかし、うちのチームは研究開発を名乗ってはいるし学位取得者も何人か居るが、 企業の研究所よりはずっと現場寄りである。 少なくとも、論文を一本上げるよりは現場で使える頑健なコードを書く方が重視される場所だ。 そこに大学教授が来る、というのは、私にとって新鮮な驚きだった。
そのことをPに伝えたが、いまいちピンと来てない様子。 「僕にとっては、大学だろうが現場だろうが、 チャレンジすべき問題を見付けてそれを解いて行くことに変わりはないさ。 現場には現場ならではの制約があって、その中でいかにして問題を解決するかというのは 非常に面白いことだよ。」 確かに、プレステ2の内部をいじりまくるとか、ゲーム屋でしか出来ないこともある。 現場と研究室とを自在に行ったり来たりするPの自由さが印象深い。
これは私の固定観念なのだが、日本の大学の研究室は現場に疎いという感覚がどうもある (もちろん研究室によって雰囲気は全然違うだろうけど)。 それは良いことでも悪いことでもある。せっかく大学に居るのだから、 現場のさまざまなしがらみに因われない研究ができるのは良いことだ。 一方、現場から全く遊離した問題ばかり扱っているとしたら、工学としてはあんまり良いことではない。 日本でもこのくらい自由に大学と現場が行き来できたら面白いと思う。
ちはるさんが 11/30の日記で内地研究員の制度について書かれておられるが、 これは企業の研究所でも良いのかなあ。
ちなみにPは、サバティカル中はもちろん講義は持たないが、 論文指導はメイルで行っているそうだ。ただし密接な指導が必要な修士の学生は昨年は取らないようにしたとのことで、 現在受け持ちの学生は博士のみ。ある程度自由にやらせていても大丈夫だと笑っていた。 そういう自由も結構きくらしい。
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Shiro Kawai